相続は法律の話だけだと思っていた人の違和感
相続が始まる前は、法律に従って粛々と進むものだと思っていた。法定相続分があり、遺言書があり、決められた手続きがある。それに従えば、自動的に終わるものだと思っていた。
実際に相続が始まってみると、法律だけでは割り切れないものがそこにある。その違和感の正体は、なかなか言葉にしにくい。
法律で決まっているという安心感
相続には法律がある。民法に相続の規定があり、相続税法に税金の規定がある。誰が相続人になるか、どういう割合で分けるか、基本的な枠組みは法律で定められている。
その枠組みの存在が、ある種の安心感を与えることがある。法律に従えばいい、決まっていることに沿えばいい。感情や人間関係とは切り離して、客観的に処理できると思えることがある。
感情が入り込む余地
しかし実際には、相続のあらゆる場面に感情が入り込む余地がある。誰が何を受け取るか、どういう順番で話を進めるか、誰が窓口になるか。そういった一つひとつの判断に、感情が影響を与える。
法律は枠組みを与えてくれるが、その枠組みの中で何を選ぶかは、人間が決めることになる。そこに感情が入り込まないわけがない。
「公平」の定義が人によって違う
法律上の公平と、人が感じる公平は、必ずしも一致しない。法定相続分通りに分けることが公平だと考える人もいれば、これまでの貢献度を考慮するのが公平だと考える人もいる。
「公平に分けよう」という言葉には合意できても、何をもって公平とするかで意見が分かれることがある。法律は一つの基準を示してくれるが、それが全員の納得につながるとは限らない。
法定相続分と納得感のズレ
法定相続分で分けた場合でも、納得できない気持ちが残ることがある。「法律ではそうなっているけれど」という前置きの後に、「でも」が続く。
長年親の介護をしてきた人が、遠方に住んでいた人と同じ取り分になることへの違和感。生前に多額の援助を受けていた人が、相続でも同じ割合を主張することへの複雑な感情。法定相続分という数字だけでは、そういった感情は収まらない。
手続きの外側にある問題
相続には法的な手続きがある。遺産分割協議書を作り、相続登記をし、預金を解約する。それらの手続きは、書類を揃えて提出すれば完了する。
しかし手続きが完了しても、終わらないものがある。家族間の関係、過去の出来事への感情、将来への不安。それらは手続きの外側に残り続ける。手続きが終わることと、相続が「終わった」と感じることは、別のことかもしれない。
専門家に任せれば済むと思っていた
弁護士や税理士、司法書士に依頼すれば、すべて処理してもらえると思っていた人がいる。確かに、専門家は法的な手続きや税務を処理してくれる。
しかし、家族間の感情のもつれや、過去の経緯から来る複雑な思いは、専門家が処理できる領域ではない。専門家は法律の専門家であって、人間関係の専門家ではない。その境界線に気づくのは、相続が始まってからのことが多い。
話し合いの必要性に気づく瞬間
法律で決まっているから話し合いは不要だと思っていた。しかし実際には、話し合いなしには進まないことが次々と出てくる。
実家をどうするか、思い出の品をどう分けるか、今後の付き合い方をどうするか。法律が答えを用意していない問いが、相続の中には数多くある。話し合いの必要性に気づいたとき、法律だけでは足りないことを実感する。
法律が扱わない領域
法律は財産の分配に関するルールを定めているが、それ以外の多くのことは扱っていない。故人との思い出、家族の歴史、感情的なつながり。それらは法律の射程外にある。
相続の中で問題になることの多くは、実はこの法律が扱わない領域にあることがある。お金の問題のように見えて、実は認められたい気持ちの問題だったりする。そういった層の深さに、法律だけでは対処できない。
割り切れないものとの向き合い方
相続を法律の問題として割り切ろうとしても、割り切れないものが残る。その割り切れなさに戸惑い、苛立ち、疲弊する。予想していなかった事態に、どう対処すればいいか分からなくなる。
割り切れないものがあること自体は、おかしなことではないのかもしれない。相続は人の死に伴う出来事であり、人の感情が関わる出来事でもある。法律で完全に処理できる方が、むしろ不自然なのかもしれない。
結びに
相続は法律の話だけではない。そのことに気づいたとき、違和感が生まれる。予想していたものと、実際に起きていることとの間にズレがある。
そのズレを責めても仕方がない。法律が万能ではないことも、人間の感情が複雑なことも、変えられる事実ではない。ただ、相続には法律以外の要素が含まれているという認識を持つことで、見える景色が少し変わることはあるかもしれない。
参考情報
