相続をきっかけに距離を置く選択をする人
相続が一段落した後、家族との関係に距離を置く人がいる。絶縁というほど劇的ではなくても、連絡の頻度が減り、集まりに顔を出さなくなり、少しずつ疎遠になっていく。
その選択には、それぞれの事情がある。外から見ると理解しにくいこともあるが、当人にとっては必要な距離だったりする。
距離を置くという選択の静けさ
距離を置く人の多くは、大きな宣言をしない。「もう関わらない」と明言するわけでもなく、「絶縁する」と告げるわけでもない。ただ静かに、連絡を減らし、会う機会を避け、少しずつ関係を薄めていく。
その静けさが、周囲からは見えにくいことがある。気づいたときには、すでに距離ができている。いつからそうなったのか、何がきっかけだったのか、本人以外には分からないことも多い。
相続で見えてしまったもの
相続のプロセスでは、普段は見えない面が表に出ることがある。お金に対する態度、公平性への考え方、話し合いでの振る舞い。そういったものを目の当たりにして、「この人はこういう人だったのか」と感じる瞬間がある。
見えてしまったものは、見なかったことにはできない。その発見が、距離を置く判断につながることがある。相続がなければ知らなかったかもしれない、家族の一面。
以前からあった違和感の顕在化
相続が直接の原因ではなく、以前からあった違和感が相続をきっかけに表面化することもある。昔から感じていた居心地の悪さ、役割の偏り、価値観の相違。それらが、相続という場面で改めて認識される。
「ずっとこうだった」という思いが、相続を経て「もうこれ以上は続けられない」という判断に変わることがある。相続は、以前からあったものに形を与える役割を果たすことがある。
疲弊した後の自然な流れ
相続の話し合いや手続きで疲弊した後、しばらく距離を置きたくなるのは自然なことかもしれない。消耗した分だけ、回復の時間が必要になる。
最初は一時的なつもりだった距離が、そのまま定着することがある。連絡を取らない期間が長くなるほど、再開のきっかけが見つけにくくなる。気づけば、距離を置くことが当たり前になっている。
期待と現実の差
相続の場面で、家族に対して何らかの期待を持っていた人がいる。協力してくれるだろう、理解してくれるだろう、公平に振る舞ってくれるだろう。その期待が裏切られたと感じたとき、失望が生まれる。
失望は、距離を置く動機になりやすい。期待していなければ、傷つくこともなかったかもしれない。期待していたからこそ、その差が痛みになる。
関わり続けることの負担
家族との関係を維持することには、エネルギーが必要になる。連絡を取る、集まりに参加する、関係を保つための気遣いをする。そのエネルギーを注ぎ続けることが、負担に感じられることがある。
相続を経て、その負担に見合うものがあるのかを問い直す人がいる。答えが「ない」だったとき、距離を置くことが合理的な選択に見えてくる。
距離を置くことへの罪悪感
距離を置く人の中には、罪悪感を抱えている人もいる。家族なのに離れていいのか、親が悲しむのではないか、自分は冷たい人間なのではないか。そういった思いが、選択の後もつきまとうことがある。
罪悪感があっても、距離を置く選択をする。それは、罪悪感よりも大きな何かがあるからかもしれない。あるいは、罪悪感を抱えながらでも、距離が必要だったからかもしれない。
周囲からの視線
距離を置く人に対して、周囲はさまざまな見方をする。「冷たい」「薄情だ」「逃げた」。そういった評価を受けることがある。本人の事情を知らないまま、外側から判断されることがある。
その視線が、距離を置くことをさらに難しくすることもある。理解されないことを承知で、それでも距離を選ぶ。その選択の重さは、本人にしか分からない。
距離を置いた後の日常
距離を置いた後の日常は、人によって違う。解放感を感じる人もいれば、喪失感を感じる人もいる。後悔する人もいれば、これでよかったと思う人もいる。
一度置いた距離を、また縮めることもある。縮められないまま時間が過ぎることもある。どちらが正しいということはなく、それぞれの状況の中で、それぞれの判断がある。
結びに
相続をきっかけに距離を置く人がいる。その選択の背景には、見えてしまったもの、以前からの違和感、疲弊、失望、負担感。さまざまなものが重なっている。
距離を置くことを良いとも悪いとも言えない。ただ、そういう選択をする人がいるという事実がある。その選択が何を意味するのかは、当人にしか分からない部分が残っている。
参考情報

