署名が揃った日
遺産分割協議書に、全員の署名と押印が揃った。
兄が書類をファイルに綴じながら「やっと終わったな」と言った。姉がうなずいた。自分もほっとしていた。話し合いは長かった。何度も集まり、何度も電話をかけ、何度も書類を確認した。途中で意見が割れて、しばらく誰も口を開かない時間もあった。
でも、それも全部終わった。署名が揃った以上、もう蒸し返すことはない。そう思った。書類を前にしたあの瞬間、三人のあいだに同じ安堵が流れていた。兄が珍しく笑っていた。
帰りに妻と外食をした。久しぶりに相続の話をしない食事だった。メニューを選ぶだけの時間が、妙に新鮮だった。重たいものをひとつ下ろしたような気がしていた。
戻ってきた日常
それから、日常が戻った。兄との連絡は月に一度あるかないか。姉とはたまにやり取りする程度だった。
相続の話がなくなると、きょうだいで連絡を取り合う用事もなくなる。それは少し寂しいけれど、わざわざ電話するほどのことでもなかった。以前は相続という共通の課題が、連絡の理由を作ってくれていた。それがなくなって初めて、きょうだいの間に用事以外の接点がどれだけあったかを考えた。
あの話し合いの日々が、どこか遠い出来事のように感じられた。大変だったけれど、終わった。書類は棚にしまい、日常の中に相続が入り込む隙間はなくなっていた。
そのことに安心していた。もう振り回されない、と思っていた。
数か月後の電話
半年ほど経った頃、兄から電話がかかってきた。
「ちょっと話したいことがあるんだけど」。その声のトーンで、日常の連絡ではないと分かった。
「実家の押し入れの奥から、通帳が出てきた。父さんが別の銀行に口座を持っていたらしい」。
言葉が出なかった。そんな口座があるとは聞いていない。残高を聞くと、「そこまで多くはないけど、百万は超えてる」と兄は言った。
電話を切ったあと、テーブルの前でしばらくぼんやりしていた。終わったと思っていた。棚にしまった書類のことが頭をよぎった。あれで全部だったはずだ。もうこの話はしなくていいはずだった。
妻に伝えると、「そういうこともあるよ」と言われた。そういうこともある。それは分かる。でも、「終わった」と思っていた自分の前提が、電話一本で崩れたことの落差が、じわじわと広がっていた。
出てきた通帳
通帳に記載された最後の取引日は、父が亡くなる二年ほど前だった。おそらく父自身も忘れていたのかもしれない。
問題は、その口座の中身をどうするかだった。協議書には、この口座のことは書かれていない。存在を知らなかったのだから当然だった。
「もう一回、話し合いが要るのか」と聞くと、兄は「そうなると思う」と言った。
その夜、なかなか寝つけなかった。金額の問題ではなかった。もう一度あのテーブルに着かなければならないということ。もう一度、あの空気の中に身を置かなければならないということ。その重さが、暗い天井を見ながらゆっくり広がっていった。
もう一度集まる
全員が集まることになった。前回の話し合いが終わってから、初めて全員が顔を合わせる場だった。
空気がどこかぎこちなかった。前回は「お疲れさま」で締めくくったはずの関係が、また話し合いの席に引き戻されている。
姉が「こういうこともあるよね」と言った。穏やかな言い方だったけれど、目元に疲れが見えた。
自分は通帳を見せてもらった。見覚えのない銀行名、知らない支店名。父がいつ、なぜこの口座を作ったのか。聞きたくても、もう聞ける相手はいない。
テーブルの上に通帳が置かれたまま、しばらく誰も手を伸ばさなかった。前回の話し合いのときに比べて、全員の口数が減っていた。窓の外で鳴いている鳥の声が、やけにはっきり聞こえた。前はこんな音、気にならなかった。部屋の中の静けさが、音を拾い上げていた。
姉の様子が違っていた
話し合いの中で、姉の態度が前回と少し違うことに気づいた。
以前の姉は自分の意見をはっきり言う人だった。納得できなければ納得できないと言い、時間がかかっても自分の考えを通そうとしていた。でも今回は、「どっちでもいい」「兄さんが決めて」という言い方が増えていた。
一度終わったものがまた始まることへの疲れなのか、それとも別の理由があるのか。聞けなかった。聞いたところで、姉がそれを言葉にできるとも思えなかった。
全員の中で、もう一度やり直す気力が薄れているのが伝わってきた。でも、決めなければいけないことは目の前にある。その落差が、部屋の中に静かに満ちていた。
兄が「まあ、大した額じゃないし」と言って場を和ませようとした。姉が小さくうなずいた。大した額かどうかの問題ではないことは、たぶん三人とも分かっていた。
協議書を読み返す
帰宅して、前回の協議書を棚から引っ張り出した。
読み返してみると、書かれているのはあの時点で把握していた財産だけだった。「その他一切の財産」という文言が入っていれば、新たに見つかったものもカバーできたかもしれない。でも、そんな条項は入っていなかった。
当時は、把握しているものがすべてだと思っていた。他にもあるかもしれないという発想自体がなかった。
協議書は完璧ではなかった。でも、そのときの自分には、それが完璧に見えていた。信じていたのは書類ではなく、「これで終わり」という自分自身の思い込みだったのかもしれない。終わりたいという気持ちが、終わったという判断にすり替わっていた。
終わったということ
新しく見つかった口座については、結局、兄が手続きを進めることになった。分け方もすぐに決まった。金額がそこまで大きくなかったからかもしれない。全員の気力が残っていなかったからかもしれない。
でも、「すぐに決まった」ことがかえって引っかかった。前回はあれだけ時間をかけて話し合ったのに、今回はあっさりしている。それは効率が良いのか、それとも全員がもう面倒になっていたのか。
話し合い自体は一時間もかからずに終わった。たぶん、今度こそ本当に終わった。
でも、「今度こそ」と思っている自分がいる。前回も「これで終わり」と信じていた。その確信は裏切られた。
またどこかから、知らない口座や知らない契約が出てくるかもしれない。出てこないかもしれない。どちらとも言えない。
一度決めれば変わらない。そう信じていた頃の安心は、もう戻ってこない気がしている。
