親の携帯電話を誰も触らないまま時間が経ったケース
親が亡くなった後、遺品の中に携帯電話がある。充電器と一緒に、いつもの場所に置かれたまま。電源を入れれば画面は点くかもしれないし、もうバッテリーが切れているかもしれない。
いずれにしても、誰もそれに触れようとしない時間が続くことがある。触れてはいけないわけではない。必要なら見てもいい。それでも、なぜか手が伸びない。
そうして数週間、数か月が過ぎていく。携帯電話は、そこにあるまま。
なぜ触れにくいのか
亡くなった人の携帯電話に触れることに、どこか抵抗を感じる人がいる。遺品として処分を考える服や家具とは、少し違う感覚がある。
携帯電話は、生前の日常が詰まっている道具でもある。電話帳、メッセージの履歴、撮った写真、検索した履歴。それらは本人だけが見るものとして存在していた。本人がいなくなった今、それを誰かが開くことに、どこか躊躇が生まれる。
遺品整理の一環として淡々と処理できる人もいる。一方で、「まだ早い気がする」「自分が見ていいのか分からない」と感じたまま、そのままにしてしまう人もいる。
スマホではなく「携帯電話」という感覚
親世代の携帯電話は、必ずしも最新のスマートフォンとは限らない。ガラケーと呼ばれる従来型の端末を使い続けていた人もいる。
スマートフォンであれば、銀行アプリやサブスクの契約情報が入っている可能性がある。それを確認しなければ、手続きが進まないこともある。しかし、「電話とメールくらいしか使っていなかった」という印象がある場合、携帯電話を確認する優先度は下がりやすい。
結果として、銀行や保険、不動産といった「明らかに手続きが必要なもの」が優先され、携帯電話は後回しになる。後回しにしているうちに、そのまま放置される。
誰が見るべきか決まらない
兄弟が複数いる場合、携帯電話を誰が預かり、誰が中身を確認するか、という問題が生じることがある。
実家の近くに住んでいる人が預かることが多いが、「預かっている」と「中身を見ていい」は同じではない。他の兄弟に断りなく中身を見ることに抵抗を感じる人もいる。かといって、わざわざ「携帯の中身を見てもいいか」と確認を取るほどでもない、と思ってしまう。
こうした曖昧さの中で、誰も何もしないまま時間だけが過ぎていく。「いつか確認しなければ」と思いながら、その「いつか」が来ないまま。
中身を見ることへの抵抗感
携帯電話の中身を見ることは、本人のプライバシーに踏み込む行為でもある。亡くなっているとはいえ、その感覚が消えるわけではない。
特に、メッセージのやり取りを見ることには抵抗を感じやすい。誰と、どんな話をしていたのか。それを知ることが、本当に必要なのか。知ってしまった後、自分がどう感じるのか。
必要な情報を探すだけのつもりでも、目に入ってしまうものがある。それを見たくないから、最初から開かない。そういう心理が働くことがある。
必要性が曖昧なまま放置される構造
携帯電話を確認しないことで、具体的に困る場面が来るとは限らない。銀行口座や保険は、別のルートで手続きが進められることも多い。
そうすると、「携帯を確認しなくても相続は進んだ」という結果になる。相続の手続きが一段落すると、今さら携帯を開ける理由も薄れてくる。
「もしかしたら何かあったかもしれない」という可能性だけが残り、それを確認しないまま終わる。確認しなかったことが問題だったのかどうかすら、分からないまま。
時間が経つほど触れにくくなる感覚
不思議なことに、携帯電話に触れないまま時間が経てば経つほど、ますます触れにくくなるという感覚がある。
葬儀の直後であれば、手続きの一環として確認することに違和感が少ないかもしれない。しかし、一年経ち、二年経ち、相続も終わった後に改めて携帯を開けるのは、どこか妙な感じがする。
「今さら見て何になるのか」という気持ちもある。必要があって見るならまだしも、ただ何となく見ることには、別の抵抗が生まれる。
情報が必要になったときに直面すること
何かの拍子に、親の携帯電話の情報が必要になることがある。親しくしていた人の連絡先を知りたい。昔の写真を探したい。契約していたサービスを確認したい。
そのとき初めて携帯を手に取ると、いくつかの壁にぶつかることがある。バッテリーが劣化して起動しない。パスコードが分からずロックが解除できない。古すぎて充電器が手に入らない。
こうした物理的な障壁は、時間が経つほど高くなる。必要になったときには、もう遅い、ということが起こりうる。
見なかったことで残る曖昧さ
携帯電話の中身を見なかったことで、何か問題が起きたわけではない。それでも、どこかに「見ておけばよかったのかもしれない」という感覚が残ることがある。
親がどんな人と連絡を取っていたのか。最後に誰とメッセージを交わしていたのか。そういったことを知らないまま、相続は終わった。
知らなくても困らなかった。でも、知っていたら何か違っただろうか。その問いには、答えが出ない。
結び
親の携帯電話は、遺品の中でも独特の位置にある。形としては小さな端末に過ぎない。しかし、その中には本人の日常が詰まっていて、簡単には踏み込めない領域がある。
見なければならないわけでもなく、見てはいけないわけでもない。その曖昧さの中で、携帯電話はしばらくの間、そこにあり続ける。
そして、いつの間にか処分され、あるいは引き出しの奥に眠ったまま、その存在は忘れられていく。

