アカウントが残っているという状態
ある家庭で親が亡くなったあと、故人のSNSアカウントがそのまま残っていた。プロフィール画像も、最後の投稿も、フォロワーの数も、生前と何ひとつ変わらない状態で画面に表示されていた。
遺族のひとりがそのことに気づいたのは、葬儀が終わって数日が経ったころだった。スマートフォンの連絡先やメールの整理をしているうちに、SNSのアプリが目に入ったという流れだった。アカウントを開いてみると、知人からのコメントや追悼のメッセージがいくつか届いていた。
その時点では、アカウントをどうするかという話はまだ誰の口からも出ていなかった。葬儀の直後には、もっと差し迫った手続きがいくつも控えていたからだった。
最初に話題にしたのは誰だったか
SNSアカウントの扱いが家族の話題にのぼったのは、四十九日の法要が終わったあとのことだった。きょうだいのひとりが、「あのアカウント、まだあのままだけど」と切り出した。その言い方には、問題提起というよりも、ふと思い出したという空気があった。
しかし、その一言をきっかけに、家族のあいだで少しずつ意見のずれが見えはじめた。ひとりは「もう消したほうがいい」と言い、別のひとりは「残しておいてもいいのでは」と返した。どちらも強く主張しているわけではなかったが、方向性が異なっていることだけは明らかだった。
「消す」という選択に含まれるもの
アカウントを削除したいと考えた側には、いくつかの感覚が混ざっていた。ひとつは、故人がもう更新することのないアカウントが公開され続けていることへの居心地の悪さだった。誰かが検索すれば表示され、知らない人がプロフィールを見ることもある。その状態が続くことに、漠然とした落ち着かなさがあった。
また、セキュリティへの不安もあった。アカウントが乗っ取られる可能性や、なりすましに使われるリスクについて、具体的な知識があったわけではないが、「放置しておくのはよくないのではないか」という感覚はあった。
削除を望む側の言葉は、悲しみや冷たさとは別のところから出ていた。どちらかといえば、整理をしなければならないという義務感に近いものだった。
「残す」という選択に含まれるもの
一方で、アカウントを残しておきたいと感じた側にも、はっきりとした理由があったわけではなかった。ただ、「消してしまうと、もう見られなくなる」という感覚があった。故人が書いた言葉、載せた写真、やりとりしたコメント。それらがすべて消えることに対する、静かなためらいだった。
遺品としての写真やアルバムとは違い、SNS上の投稿にはその時々の気分や関係性が反映されている。誰かに向けた返信、日常のつぶやき、季節の写真。それらを一括で消すことに対して、「まだ早い」という気持ちが残っていた。
残したい側は、故人の記録を守りたいという意図よりも、自分のなかの整理がまだついていないことを感じていた。ただ、それを言葉にするのは難しかった。
意見が分かれたまま時間が過ぎる構造
このような場面では、どちらかの意見に明確な誤りがあるわけではない。削除にも保存にも、それぞれの筋道がある。そのため、議論が白熱するというよりも、結論が出ないまま話題が流れていくという形になりやすい。
この家庭でも、最初に話題にのぼった日のあと、しばらくSNSアカウントの話は出なかった。ほかの相続手続き、不動産の名義変更、銀行口座の解約、保険の請求といったことが優先され、SNSのことは後回しになった。後回しにしたというよりも、結論を出さないままでいることに誰も違和感を覚えなかった、という方が近い。
故人の交友関係が見えてしまうこと
アカウントを確認する過程で、家族が知らなかった故人の交友関係が見えることがある。フォローしている人、やりとりしている相手、所属しているグループ。それらは、家族のなかで共有されていた故人の像とは少し異なる輪郭を持っていた。
この家庭でも、きょうだいのひとりが故人のSNSを見ていたとき、知らない名前のアカウントとのやりとりを見つけた。内容に問題があったわけではなかったが、「知らない人と、こういうやりとりをしていたのか」という感覚が残った。
その感覚は、怒りや疑念とは違う。ただ、自分が知らなかった親の一面に触れることで、アカウントをどうするかという判断がさらに複雑になった。消すことは、その一面をなかったことにするようにも感じられ、残すことは、見続けなければならないようにも感じられた。
プラットフォーム側の仕組みとのずれ
SNSサービスの多くは、利用者が亡くなった場合の手続きを用意している。追悼アカウントへの切り替え、遺族による削除申請、データのダウンロード。仕組みとしては存在しているが、それを家族が知っているとは限らない。
この家庭でも、「追悼アカウント」という選択肢があることを知ったのは、アカウントの扱いについて調べはじめてからだった。しかし、追悼アカウントにするという選択が、自分たちの気持ちに合っているかどうかは、また別の話だった。制度として用意されている選択肢と、家族が感じている感覚のあいだには、微妙なずれがあった。
手続きの存在を知ったことで、かえって「どれを選ぶか」という問いが生まれ、話がまとまりにくくなるという側面もあった。
パスワードを知っているかどうかという前提
アカウントをどうするか以前に、そもそもログインできるかどうかという問題があった。故人のスマートフォンのロックは解除できていたが、SNSアプリにログインした状態が維持されていたかどうかは、端末の設定や再起動のタイミングによって変わる。
この家庭では、故人のスマートフォンにSNSアプリが入っており、たまたまログイン状態が保持されていた。そのため、投稿やメッセージを見ることはできた。しかし、パスワードそのものは誰も知らなかった。アカウントの設定変更や削除にはパスワードの再入力が求められる場合があり、その段階で手が止まることになった。
パスワードの再設定には、故人のメールアドレスへのアクセスが必要になることもある。メールアカウント自体のパスワードがわからなければ、そこでまた別の壁にぶつかる。ひとつの手続きが、別の手続きの前提条件になっている構造があった。
誰が決めるのかという問い
家族のあいだでアカウントの方針が定まらないとき、「では、誰が最終的に決めるのか」という問いが浮かぶことがある。法的な相続手続きであれば、相続人の範囲や持分について法律が枠組みを示している。しかし、SNSアカウントの扱いについて、そのような明確な枠組みはない。
この家庭でも、きょうだいのあいだで「誰が判断するか」という点が曖昧なままだった。長男だから、同居していたから、一番親しかったから。そうした理由づけはいくつか考えられるが、どれも決定的ではなかった。SNSアカウントは不動産や預金とは異なり、法律上の「遺産」として明確に位置づけられているわけではない。そのため、話し合いの土台そのものが不安定だった。
決められないまま残り続けるもの
結局、この家庭ではSNSアカウントの扱いについて結論が出ないまま、数か月が過ぎた。アカウントは削除されず、追悼アカウントにもならず、生前のままの状態で残っている。誰かがときどき思い出し、「どうする」と口にすることはあっても、そのたびに話はまとまらないまま終わる。
放置されているというよりも、決められないという状態が続いている。それは怠慢でもなく、対立でもなく、それぞれがそれぞれの感覚を持ったまま、ひとつの答えにたどり着けていないということだった。
故人が生前にアカウントの扱いについて何かを伝えていたわけでもなく、家族のほうからそれを尋ねたこともなかった。SNSアカウントは、生きているあいだは本人だけのものであり、亡くなったあとに誰のものになるのかを、誰も考えていなかった。
決められないという状態そのものが、この家庭にとってのひとつの現実だった。
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