葬儀が終わった後に、相続の話を切り出せなくなる家庭

相続と人間関係

葬儀の翌日から、家の中の空気が変わる

葬儀が終わると、家には急に静けさが戻る。弔問客の声も、読経の響きも消え、居間には日常の輪郭だけが残される。遺影の前に供えられた花の水を替えながら、家族はそれぞれの時間に戻っていく。

その静けさの中に、もう一つ別の沈黙が紛れ込んでいることに、しばらく誰も気づかない。相続という言葉が、頭のどこかにはあるのに、口には出てこない。出さないというより、出せない。あるいは、出す場面がどこにも見当たらない。

親を亡くした直後の家庭には、悲しみとは別の、ある種のぎこちなさが流れることがある。それは誰のせいでもなく、何かの失敗でもない。ただ、葬儀という区切りが終わった後に、次の話題がどこにもないまま、家族が同じ空間にいるという状態が生まれる。

「まだ早い」という感覚が全員にある

葬儀の直後に相続の話を持ち出すことに対して、抵抗感を覚える人は少なくない。故人を送ったばかりの時間に、財産の話題を並べることには、どうしても後ろめたさがつきまとう。

この後ろめたさは、法的な正しさや手続きの期限とは別の場所にある。気持ちの問題として、「まだ早い」という感覚が自然に立ち上がる。そしてその感覚は、一人ではなく複数の家族に同時に生じやすい。全員が「まだ早い」と思っているとき、話を始めるきっかけは構造的に失われる。

悲しみの深さが人によって違うように見える

家族それぞれの悲しみの表れ方は異なる。涙を流す人がいれば、淡々と手続きを進めようとする人もいる。感情の出し方に差があること自体は、不思議なことではない。

ただ、その差が「話を切り出すかどうか」の判断に影響を与えることがある。涙を流している家族の前で、相続の段取りを口にすることがためらわれる。一方で、冷静に見える人が話題を出すと、「もう気持ちの整理がついたのか」という視線が向けられることもある。悲しみの表現の差が、話題を出す資格のようなものに変わってしまう場面がある。

「誰が最初に言うか」が暗黙の問題になる

相続の話し合いには、始まりの瞬間が要る。けれど、その最初の一言を誰が発するかについて、あらかじめ決まっている家庭は少ない。

長男が切り出すのが自然だと考える家もあれば、同居していた子どもが口を開くのが筋だと思われている場合もある。あるいは、配偶者がまず動くものだという前提を持つ人もいる。しかし、それぞれが「自分が言い出すのは違う」と感じている場合、全員が待つ側に回る。そこに表面化しない膠着が生まれる。

四十九日までは何もしないという慣習感覚

明確なルールとして存在するわけではないが、「四十九日が済むまでは静かにしておくもの」という感覚を持つ家庭がある。法要が一つの区切りとして意識されるため、それ以前に動くことが不謹慎に映ることがある。

一方で、相続に関する手続きには期限があるものも含まれている。相続放棄の申述には3か月という期間が定められている。四十九日を待つ間に、手続き上の時間が静かに減っていくという構造が、ここに生まれる。どちらが正しいかという話ではなく、慣習の感覚と制度の時間が噛み合わないまま並走している状態が続く。

実家を離れると、空気を共有できなくなる

葬儀の前後には、遠方に住む兄弟姉妹も実家に集まることが多い。しかし、葬儀が終われば、それぞれの生活の場に戻っていく。電話やメッセージでやりとりはできても、同じ居間で沈黙を共有していた時間はもう再現されない。

距離ができることで、話題の切り出しはさらに難しくなる。対面であれば自然な流れで持ち出せたかもしれない話も、電話の最初の一言としては重すぎる。「元気にしてる?」の後に「ところで相続のことだけど」と続けることに、唐突さを感じる人は少なくない。物理的な距離が、心理的な距離を補強してしまう。

日常が戻るほど、話題が浮きやすくなる

一週間、二週間と経つうちに、生活は元の形に戻っていく。仕事が再開され、子どもの学校行事があり、買い物や通院の予定が積み重なる。日常が回復すること自体は、自然な流れといえる。

ただ、日常が安定するほど、そこに「相続」という話題を差し込むことが異質に感じられるようになる。日常の中に非日常の議題を持ち込む違和感は、時間が経つほど大きくなる。葬儀の直後であれば「こういう話もしないと」と言えた空気が、日常に戻った後では消えている。

「落ち着いたら話そう」が繰り返される

葬儀の前後に、家族の誰かが「落ち着いたら、いろいろ話さないとね」と口にすることがある。その言葉自体に悪意はなく、今は無理だけれどいずれ話すつもりだという意思表示に見える。

しかし、「落ち着いたら」が具体的にいつなのかは誰にもわからない。一か月後に落ち着くのか、三か月後なのか、それは人によって異なる。そして、「落ち着いたら話そう」という言葉が一度出ると、次に話題を出す人は「まだ落ち着いていないのでは」という判断を求められることになる。結果として、その一言がブレーキとして機能し続ける場面がある。

話を出すことが「お金に執着している」と映る不安

相続の話を切り出すことに対して、「お金のことばかり気にしていると思われるのではないか」という懸念がある。この懸念は、実際に誰かに指摘されたわけではなくても、本人の中で育っていく。

特に、故人との関係性が密だった人ほど、この不安を抱えやすい傾向がある。長く介護に関わっていた子どもが相続の話を出すと、「見返りを求めている」と受け取られるのではないかと感じる。逆に、あまり関わっていなかった子どもが切り出すと、「今さら」という目で見られるのではないかと心配する。どの立場から話を始めても、何らかの意味づけが付与される可能性が頭をよぎる。

沈黙には形がない

相続の話題が出ないまま過ぎていく時間には、目に見える対立も、はっきりした拒絶もない。ただ、誰もが何かを言いかけて、やめている。その繰り返しが、家族のあいだに薄い膜のようなものをつくっていく。

この状態は、外から見ると平穏に映る。揉めてもいない、争ってもいない。けれど、話し合いが始まっていないという事実は残ったままになっている。沈黙には、対立のような輪郭がないため、それが問題として認識されるまでにも時間がかかる。


相続における沈黙は、誰かが悪意を持って生み出しているのではなく、それぞれの配慮が重なった結果として静かに積み上がっていく。


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